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じきじゅ想房

想うことを想うままに、ぽつりぽつりと綴りました。
各タイトルをクリックしてお読み下さい。
 
 

ゲゲゲの鬼太郎
 

アニメからしばしば学ぶことがあります。
最近はあまりテレビ自体見なくなったので、そんな機会もなくなりましたが。
アニメに限らずとも、人生を揺さぶるような出逢いはあちらこちらに落ちています。
ただ、それに気づかないだけなのです。
研ぎ澄ますべきは五感ではありません。道徳観でも法律でも宗教でもありません。
そんなお話しが出来ればと思います。
ああ、アニメの話しに戻りますと「ゲゲゲの鬼太郎」というアニメがありました。
ご承知の方も多いでしょう。
再放送も何度もやっているし、何か平成版もあったみたいですね。
ああいうのは結構困るものです。同じ鬼太郎でも違いすぎる。
ラーメン屋のらーめんとインスタントらーめん程の違いがあるけれど、
らーめんの様にどっちもそれなりに美味しいわけじゃないから。
やっぱり鬼太郎はオカリナなんて持ってなくていいんですよね。
その「ゲゲゲの鬼太郎」のある一話。鬼太郎には珍しく、自分の強さにおぼれたことがある。
俺が妖怪の中で最も強いんだー!って。
そして、目の前に現れた図体の大きな妖怪と強さ比べを始めるんです。
鬼太郎は敵に様々な攻撃を浴びせます。
しかし、相手は一向に怯むことなくその技を受けるばかりなのです。
やがて、鬼太郎は疲れ果てて、攻撃をやめてしまいます。
そして、ふと敵を見たときに鬼太郎はハッとするのです。
さすがは鬼太郎、すぐに自分を理解しました。
その相手、それはなんとただの大きな岩だったのです。
勝ち続けることの敗北でした。
強さに傲慢になり、戦いを勝敗で判断する。
そんな鬼太郎なんて僕だって嫌いだ!
戦いにはわけがある。生きていくにもわけがある。何にだってわけがある。

 
けんかの木
 
もう何年か前の夏、名古屋での個展で出会った女性からこんな話しを聞いた。
「私の町には"ケンカの木”って呼ばれる木があったの。」
小学生たちは皆そこで喧嘩をしたらしい。いや、そこでしか喧嘩をしなかったらしい。
放課後、子供たちは毎日その木に集まった。喧嘩をする者、それをまくしたてる者、じっと見守る者。
そして、先生もまたそこでの喧嘩だけは黙認したと言う。
そこでの喧嘩はとても神聖なものであったに違いない。
木はいくつの喧嘩を見てきたろう。体力の成長目まぐるしいその時期に、いくつもの世代交代を余儀なくされる。
ボスを退いた者はいっきに権力を失う。そんな者にも木はきっと優しかったに違いない。
喧嘩はよくないよ。とは僕には言えない。ルール無用の喧嘩にもルールはある。
僕らは暗黙の了解としての「してはならぬ事」を理解していたし、それの分からぬ者との喧嘩は危険であることも承知していた。ケンカの木はそれを審判する聖地だったんだね。
その木は、御殿場にあるらしい。今はどうなってるのかは分からないそうだけど、一度その木にあってみたいと思う。ナイフの傷跡だらけだったら怖いけどね。

このお話しは、夜の紙芝居になっています。

 
ド根性ガエル
 
親は「マンガばっかり見てないで!」と、僕をブラウン館から遠ざけたこともあったが、
まんざらアニメというものは悪いものじゃないと思う。
今のアニメがどんな傾向をもっているのかは知りませんが、
少なくとも僕はアニメから多くのものを学んだし、今だに疑問の解けない問いかけもある。
その中でも、強烈に僕の心を揺さぶった2つのストーリーがある。
「ど根性ガエル」と「ゲゲゲの鬼太郎」だ。
「ゲゲゲ」については、これもまた非常に真髄をついた内容なのだけれど、
ご挨拶文で少し触れましたね。
ど根性ガエルの名前は、ぴょん吉って言うんです。
そのシャツを着た少年、彼の名は、“ひろし”。
設定としては、中学生だったかな。その、ひろしがぴょん吉にもないしょでタバコを吸うようになったんです。中学生がタバコ。ああ、いいことではないですよね。
ある日、ぴょん吉がその現場を発見します。そして、梅さん(あの寿司やの)を呼んで一緒にひろしを叱るんです。でも、ひろしがタバコを吸っていたには理由があったのです。
ひろしは、とある小さな子供と出会います。その子供はつい近頃父を亡くしていました。亡くなった父はその子に、タバコの煙でわっかを作って楽しませていたらしいのです。
その子供は心を許したひろし兄ちゃんに、お父さん像を求めました。タバコのわっかと同時に。その後、梅さんがどう処理をしたか覚えていません(とても気になるところです。)。
道徳観ってものは、常に人のやさしさが基本となっています。
どう生きるか、どう伝えていくか。
それは流されないことです。
 
先生の一言
 
あれは忘れもしない、小学1年の国語の授業。
綺麗で優しい大好きな先生の授業のなかで、先生は子供たちにひとつの問いかけをした。
それは、教科書に出てくる主人公A君は、はたして勉強が好きでしょうか?嫌いでしょうか?という質問だった。
皆は一斉に元気よく手を上げて、その問いかけに答えていった。
「A君は勉強が嫌いだと思います。」それが僕以外のすべての子供たちが答えた回答だった。
先生が僕を指し、僕は立ち上がってこう答えた「A君は、勉強が好きではありません。」と。
そして、その後先生はすぐにこう言って僕を座らせた。「それは、嫌いということですね。」
・・・・小学一年生の小さな胸に、言いようのない虚しさが残った。
その出来事は、それ以降の僕の人生を大きく変える出来事となり、今の僕を作り上げた最も重要な要素となった。
「好きではないこと」が「嫌い」でないこと。
その微妙な意思が他人に通じ合わなかったこと。
それは、ただ単にそこだけに留まらず、言葉でより正確に自分の意思を伝えようとすることに通じ、言葉と表情によって、相手が伝えようとする微妙なニュアンスを感じ取る。
さらに、目の前の相手に寄り添いながら意思を疎通させる。などなど。
時々、恐ろしく思うのは、あの時先生が「そうですか。」と言って僕を座らせていたら
・・・きっと今の僕はなかったろうと。
それにしても、当に出会いは奇なれど、必然の波の中で人は暴れまわるのだと。

ちなみに「不浄」という言葉がありますが、これはご承知の通り「汚い」と言う意味ではありません。
字の如く「浄に不〈有)らず」と言うことです。
 
花は美しいにあらず
 
花の命(という表現が正しいかわかりませんが)が結構短いと実感したのは、
この地に移り住んでからです。
そもそも、花が花弁をつけるのは子孫継承の為であることは、言うまでもないでしょう。
虫たちを誘い出すためのサインであるわけですが、
そんなことはさて置き、花の見事な彩色そして、その薫りにおいても多くの人は、それに魅了されてしまいます。
しかし、虫と人との大きな感覚の違いは、本能と思考の違いによるのではないでしょうか?

我々人間は、花に限らずとも美しいものを見て、綺麗と頭の中で判断することができます。
しかし、そんな中にあっても、綺麗だと思わない人もいます。
時代、価値観、文化、学習、風習、等によってもそれはまちまちです。
絶対的な“美”などないのかも知れません。
では、一体何が美しいと言うのでしょう?
それは、"美しいと感じる心”が美しいのです。
人それぞれ持ち合わせた美意識が、何かを美しくさせるのです。
しかしながら、その構図は大いなる代償も含んでいます。
"汚い・醜い”という感覚もまた同じであるからです。
美と同じく、絶対的な"汚い・醜い”など存在しません。

よく小さな子が「バーカ!」なんて言うと、お母さんが「そんなこと言うと、自分がバカになっちゃうよ。」なんて言っている風景に出くわすことがありますが、当にそれですね。
 
プラティが教えてくれたこと
 
60センチの水槽に3対のペアの熱帯魚“プラティ”を飼う。
色も赤や青やで様々なのですが、中にもミッキーマウスプラティなるものがあって、それは尾びれの付け根の部分に、横たわったミッキーマウスの顔の模様のある固体がある。名付け親も見事なものであると関心させられる。さぞ楽しかったでしょう。
そんなプラティは繁殖力が強く、容易に自家繁殖ができる。特別な保護をしないでおいても、水草や岩陰をつくっておくだけで、何匹かは食べられずに生き残って成魚となる。臆病であることが身を守るのです。(もちろんそれだけではないでしょうが)
そんな二世がまた子供を産み、数ヶ月で水槽の中はプラティだらけになってしまう。
色もミッキーもよりたくさんのバリエイションが生まれ、栄華を極める。しかし、そん
な時代は容易には長く続かない。淘汰が始まり少しは安定するものの徐々に固体数は減り、やがて滅んでしまう。
ある一定の定められた環境の中では、必要以上の肉体的個性(バラエティ)は必要なくなる。ましてや血縁関係の強い繁殖であるがゆえ、固体の貧弱化は避けられないでしょう。微妙な環境の変化に順応する遺伝子はもはや存在しないのです。
それを救う手立てはあります。そこに新しい風を吹きこませるのです。そう、新しい個体を入れてやるのです。そこに、新たな個性が誕生します。いくつもの個性の中には、ぶさいくでもこの環境を生き抜くのに充分な能力を持った救世主が誕生するでしょう。そうやって種は保たれるのです。ほら、よくあるでしょ。少数民族の村に立ち寄った旅人が、精子を置き土産にさせられるってのが。
個性は無限の可能性を秘めています。足の遅い人もいます。算数が苦手な人も、お腹の出た人も、頭痛持ちの人も。でもそれは“個性”です。それゆえ、個性を認め、それを育てる努力は決して無駄ではありません。
さあ、この文章をあなたなりの集団に置き換えて読みなおして見てください。地域社会、会社、サークル、そして、文明。あるいは精神社会でも同じです。
お尻にミッキーマウス付けるのも忘れないでね。
 
ブレーメンの音楽隊
  ひとつの夢に向かって突き進む姿は、とても美しいものです。
しかし、そんな美しさの中に魔物が潜んでいることも事実です。
浅はかな、そして頑固な夢はまむしの住む湿地の如く。

ここに人生?に疲れ、日常を脱するために立ちあがった4匹の動物があります。
ろばさん、犬さん、猫さん、にわとりさんです。
彼らはそれぞれ買主のもとを飛び出して、偶然にもとある場所で出会います。そして、ブレーメンに行って音楽隊に入ることをひとつの夢として、旅立つのです。
希望に満ちた新たな人生の始まりです。彼らは色々な困難にもめげずに4匹が力を合わせて旅を続けるのです。
そんなある晩のこと。空腹に耐えながら歩く彼らの目の前に一軒の家が見えてきました。その家の中からは、おいしそうな匂いとにぎやかな声が聞こえてきます。4匹はためらわず、窓越しに中を覗きこみます。そこでは、盗賊と見られる何人かの強面男たちが酒盛りの最中でした。4匹は話し合って、こいつらを脅かして追い出してやろうと企てます。おばけになりすました4匹は見事、男たちを追い出すことに成功!おいしい食べ物にありついたのです。そして、ここでの生活があまりにも心地よかったので、ブレーメンに行くことをやめてずっとここで暮らしたとさ!めでたしめだたし!
「お前らの夢はどーなったんじゃ!!ブレーメンの音楽隊はどーなったんじゃ!!4匹で誓い合ったあの日の決意はどこいったんじゃ!!」
そんな怒りに震える人もありましょう。
夢というものはなかなか見つかるものではありません。でも、人は夢見て生きろ!といいます。夢は強制されるものでもありません。自発的に、花の種が発芽するかのようにゆっくりと芽生えてくるものです。
にわかな夢はだいたいにおいて、人を苦しめてしまいます。そして、本当に見なければならないものを、見過ごしてしまうことにもなります。
様々な経験が人を大きくさせるのです。その失敗もまた、経験だと考えるのならばいいでしょう。ただ、ほとんどの人はその失敗に生きる元気を失ってしまいます。
何をやったらいいの?なんて悩むことはありません。何でも目の前にあることをやって行こうじゃありませんか。そのうち見つかりますよ。
ちなみにこのようなお話しは、夜の紙芝居「おでんず」のモデルになっています。

 
unkoism
 
最近人形教室なるものに、お呼びいただく機会が多くなりました。
生徒さんの年齢も4歳〜80歳くらいまで、多岐に渡ります。
そうした中でのひとつの傾向としては、以下のパターンとなっております。
小さなお子さんが、人形を作った場合。
「ねえ、ねえ、先生。見て、見て!」と無邪気に僕のところへと見せに来ます。
小学生くらいのお子さんが、人形を作った場合。
「先生、ここん所どうすればいいの?」と疑問を投げかけに僕のところへとやって来ます。
大人の方が、人形を作った場合。
「先生、ここが思うとおりにならないので、作って!」と言って僕のところへとやって来ます。

この時、正直言って僕は戸惑ってしまいます。
僕が手を出したら、その人の作品じゃなくなってしまうのに・・・

一言で「教える」といっても、様々な意味合いを持っています。
大きく別けると、第一に技術であったり。第二に想いであったり。
そして、その意味合いは"教わる側”にも伝わっていなければ、楽しい作品作りには繋がりません。
そんな時に役に立つのが、「unkoism」なのです。
作品作りに入る前に、くるくるウンコを皆さんに作ってもらうんです。
生徒さんは、誰一人として僕に質問することはありません。
だまってウンコを作るのです。
巻き数を気にする人。大きさを気にする人。形を気にする人。など、ほとんどありません。
だまってウンコを作るのです。
「その、今ウンコを作っている気持ちを大切にして、これから人形を作って下さい。」

何にもとらわれず、自分の形を表現すればいいんですよね。
でも、それが一番難しいところなのです。
 
手油
 
ずばり、沖縄で言う“手の油”のことです。
 方言はその土地土地での文化、風習を吸い込み深い意味合いを持って発達してきた言葉です。簡単には訳してはならないものも沢山あります。
 例えば僕の故郷には「あばばい」という言葉があります。単純に訳してしまえば「まぶしい」ということになりますが、主としてこれは“海に反射して眼に入る光”に対して使われることが基本となります。応用としては、木の葉から漏れる日差しのようにキラキラとした光に対して使うことが妥当であると考えます。さらに、これは余談ですが“ば”の数を増やすことによってその光の強度を表現できます。「あばばばばい!」は相当眩しいということになります。このように、方言はその土地との深い関わりと、それを人に伝えるための必要性をもっているものなのです。
 「沖縄の料理が美味しいのは“ティーアンダ”のお陰」なのだそうです。沖縄の食文化を僕は知るところではありませんが、食材に直に触れることによって装置では表現できない食感というものを醸しだす、ということは事実あるでしょう。しかし、それ以上に作り手と喰らい手とをダイレクトにつなぐラインを通る“心”というものも忘れてはなりません。し、しかしそれだけでもないと思います。手から出る油が現実に食材と絡まりあい、味を変えるということもありましょう。ともあれ“手油”という言葉が長い歴史を経て使われ続けるには、食に対する深い思いがあることに間違いはないと思います。
 そこに科学のメスは必要ありません。叶うものであれば、現地に出向きティーアンダの効いた料理を堪能したいですね。
 
比較的損得性
 
隣りの芝が、しばしば青く見えることがある。
同じ給料なのに、自分の方がたくさん仕事をしていたり。 
吉野家へ行って、隣りの人の方がたくさん肉がはいっていたり。ビールの泡が、自分だけ多かったり。
そんなことをいちいち気にしながら暮らしていくのは、それはそれで可愛くも見えるけれど、そうでもない暮らし方が出来れば、日常はもっと価値のあるものになる。
多くの人は、常に周りをキョロキョロ見ながら生きているでしょ。それは常に、自分と他人(ひと)とを比較しているんです。そして、そのひとよりも「幸せか、不幸か」「勝っているか、劣っているか」そして「損か、得か」ということを判断するわけです。それが、決して悪いと言うのではありません。ある意味人は、そうやってしか生きていけないでしょう。かといってそんな比較の中で、自分にとってのマイナス要因ばかりを引き込んでしまっていては、イライラが積もりやがては、他人(ひと)への憎悪を募らせ、自らの自信をも喪失させてしまうでしょう。そう、精神の貧弱化ですよね。
“他人(ひと)は他人(ひと)”という考え方は、時として冷酷であります。他人(ひと)と自分とをしっかりと見極め、非常に難しいところですが、“他人(ひと)も自分”であるという考えに立った比較が出来れば素晴らしいでしょう。
比較による損得にこだわらず、自分の成すべきことを正しく判断していきましょう。
そんな事は、なかなか出来ないですよね。日々の意識ですよ。
まずは、吉野家に行って、隣りの人の肉を見比べてみるのもいいかもね。・・・・やっぱり大きいわ!
 
子供たちの”使い分け”
 
こんな僕が近所の高校で国語の講師をしていた頃、生徒たちに400字詰めの原稿用紙を使って読書感想文を書かせたことがあります。生徒たちは自分の知るかぎりの丁寧語で、作者をたたえ、その思想に対し肯定的な意見を述べていきます。
僕はおもうところあって、次ぎの機会には原稿用紙ではなく白紙の紙に感想文を書もらうことにしました。するとどうでしょう、生徒たちは日常の言葉を使って、作者に対して意見するという現象が現れました。もちろんすべての生徒がそうであったわけではありません。
子供達は無意識のうちに、表現を使い分けるのです。原稿用紙にはこう書かなくてはならない。という概念をいつしか植え付けられています。学校教育のありかたをどうこう言うつもりではありませんが、これは原稿用紙に限った話しでもありません。
時折、学校で粘土人形の指導をする事があります。そこで作られる人形と個人的な粘土教室で作られる人形とは、確かに違うのです。
学校では先生に気に入られる表現をすることが賢明であるということを、子供達は知っています。いや、体得していると言ったほうが良いでしょうか。
学校に限らず、子供達に何かを教え、指導する方々には是非参考にしてもらいたいものです。
 
もの〜人〜モノ
 
モノは人と人をつないでいる。ここでいう人とは、前者が生産者、後者は消費者のことです。
田舎には無人販売たるものがあるのを、皆さんはご存知でしょうか。自分の畑で採れた野菜、山で採ってきた山菜やきのこを、小さなほこらのようなところに陳列しておおよそ百円で、売っているのです。町の方々は田舎のドライブで時折見かけることがあるでしょう。「超信頼的自動販売機」とでもいいますか。僕の家の近所にも沢山の無人販売があります。僕はそれを比較的多く利用しています。季節感がとても良く見えてくるからです。そして、そのポリシーがたまらなく恋しいからです。袋に書かれた値段通りにお金を入れると、何か自分がとても善い奴に思えます。
その、原始的な販売方法は、まさに人と人をモノが結ぶ典型的なスタイルと言えるでしょう。
つい数年前までの「モノを大切にしなさい。」とは、今で言う資源価値を超えたところに、その本当の意味合いがあったんだと思います。常にモノは物を越えた生命感に満ちていたし、それをこしらえた人の顔がそこにはあった。車だって温かかったし、扇風機の風だって温かかった。何も、今の車や電気製品がダメだって言ってるわけじゃなくて、ただ、今のオートメーション化されたモノには人の気配が見えてこないんだ。そんな流れのなかで、今の子供達はモノを物としてしか感じられなくなっていくのだとすれば、それはとても残念なことだと思う。
近頃、ちまたのお店では「手作りの」とか「こだわりの」なんてのが良く売れてるみたいだけど、それに購買意欲をかき立てる客もまた生産者に対しても、滑稽に思えてならない。僕も含めて、僕のまわりにはたくさんの物作りがいます。彼らのモノの中には確実に彼らが息づいているし、消費者もそれに魅力を感じる。そんな風に生まれたモノを仲立ちとした人間関係はとても厚いものになっていく。いいと思いませんか?単純にね。
 
流木
 
海へ行くと決まって、下を向きながら海岸線を歩く。心に影を持った男を気取っているわけではなくて、流木を探しているのです。
 流木は僕を夢の世界へと誘ってくれます。どこから流れて来たのか。流される前はどんな生活をして、人と触れ合ってきたのか。船などの一部であれば、どんな職人さんがこの木を削り、その船の進水式には、どんな人たちが手を取り合って喜んだことか。そして更にさかのぼれば、どんな森で育ちどんな風に切られて運ばれたのか。種が大地に落ちて小さな芽を出す。その頃の人々の生活はどうであったか。小鳥が羽を休め或いは、
木の実を施し。春には若葉を大いに茂らせて、冬には風に枯葉を任せ。・・・・・想いは尽きない。
 考古学や宇宙を思うそれに似て、流木を一つ見ているだけで遠い時間旅行に出かけることができる。ただ、違うことは真実を追究するものではないということ。
 人の人生によく例えられる流木は、長い年月を経てゆっくりと姿を変えていく。まずは角が削られ貧弱な部分が除かれていく。そうやって時間をかければかけるほど、或いは荒波に揉まれればもまれるほど、目にも鮮やかで研ぎ澄まされた造型を作り上げる。それは、木彫にも似て本来あるべき姿を現すという行為に近いものだろう。って言うかそういうことなんだろう。そう、人は元来、冴えきったものを皆持っているんだ。それを真に引き出すにためには、長い時間を必要とするし、苦労をすることが必要なんだ。
 角や貧弱な部分の中に潜む強い自分がそこにはある。洗われる(あらわれる)とは現れるということなのです。
 
手巻き
 
このタイトルを見て、お寿司を連想された方もあるでしょうが、残念ながらハズレです。
手巻き寿司は手で巻いても動きませんので。
最近、僕の周りには“手巻き”が溢れています。時計、ラジオ、蓄音機、カメラ、そして車。
50代以上の方はご存知あるかも知れません。ダットサン211!
車自慢をするわけではありませんが、近頃手にいれました。
通常はエンジンをかける時セルを回しますよね。それを直接エンジンにL字の鉄棒を突っ込んで、ぐるぐる回してやるんです。
世の中は今や何でも、電池・電気でしょ。勿論僕だって電気には頼ってるし、それを否定するわけではありません。ただ、それが当然だと洗脳されてしまうのはとても恐ろしい事です。特に今の子供達は原理というものを学ぶ機会がとても少なくなっています。電池を入れれば音が出るのです。光りもします。走りもします。「電池入れたから当たり前やん。」それが現状でしょ。僕たち大人(いい言葉がみつかりませんでしたので)もそうなって来てますよね。 「それのどこが悪いの?」と思われる方もあるでしょう。いやいや、別に悪くはないんです。
ただ、ほとんどの人がそうなってしまえば、新しいエネルギーの発想は可能性としてとても薄いものになります。何もエネルギーに限ったことではありません。人の役割は様々です。
何でもかんでも真剣に考えこんでいてはハゲてしまいます。日常にあるちょっとしたヒントを感じることで何かが、いい方向に変わることもあります。ただ“のほほん”もいいけれど、次の世代の為に何かひとつは残してあげたいものです。
ああ、何だか手巻き寿司が食べたくなりました。何巻こうかな?
 
悔い型損得症
 
「へい!らっしゃ〜い!」 「2,000円分お願いします。」
とあるガソリンスタンドでのひとこまです。僕は随分長いこと給油しているなあと思ったら、案の定「満タンはいりました〜!」ときた。僕は引かずに「2,000円分って言うたけど。」と言い返す。結果、スタンドは僕から2,000円だけをとった。おおよそ30リットルのガソリンをサービスしてもらったのだ。僕はうきうき気分で車を走
らせた。しかし、その喜びもつかの間だった。「あー、あの時1,000円分って言えばよかったなあ。」と今度は後悔をする。
また、こんな話しもある。
とあるKホームセンターで、安いお米を買った女性がある。翌日その米を炊き、食べてみるとなんともまずいこと。早速そのお米を持って、販売店に行くと「だから安いんですよ。」との返答があったが、食い下がらずに苦情を言うと最後には残りのお米を引き取って、お金を返してくれたそうだ。まずくとも彼女は一食分のご飯
をタダで得ることができたわけだ。しかし、彼女はこう後悔をしたと言う。「あー、もっとお米炊いておけばよかった。」と。
ふいに物を得るのは、ことのほかうれしいものです。しかし、状況によっては“得”をしたにもかかわらず、“損”を感じてしまうという不思議な現象を起こします。上記の出来事はほんの些細な日常の出来事ですが、そんな感情の積み重ねが貧しい心を作り上げます。
色々な状況があるにせよ、まさに、“有り難い”出来事に“有り難う(ありがとう)”と思いたいものです。
 

暮らしの中のノイズ
 
物音ひとつない静かーな闇の夜、うるさくて眠れなかったという経験をした方はありませんか?
僕の実家は、潮音の届くところにありました。
満月の夜には夜中に向けて大潮の干潮になるためそんな夜は、"静けさの音”がうるさくてなかなか眠りにつけませんでした。
現在でも岐阜の山の中ではそんな騒音に悩まされます。(たいがい気にせず寝てしまいますが)
そんな時にはちょっとした別の音が加わることで、静かさが本当の静けさとなるのです。
フナ虫の這音、夜鳴きの蝉、蚊の羽音、家のきしみ。遠くで聞こえる祭囃子が静けさを一層増すということは、よくあることです。
そうした音に限らずとも、日々の生活の中には気づかずに重要な役割を果たしているノイズが多くあります。
隠し味で料理が美味しくなったり、煙を吸っておいしい空気を感じたり、背中のかゆみが健康を思わせたり。あとはあれ、やっぱり音ですが、蓄音機なんかを聞いていると"ブチッ、ブチッ”音が耳を刺激して音を選択したりとか。五感が威力を発揮するというか。ああ、生きているんだなあって感じる。
完璧すぎる存在は時として、その存在価値を忘れさせてしまします。何にもない平平凡凡人生なんてつまらないでしょ。
それは、生きているってことを忘れてしまっているからなんですよね。
 

虫殺し
 
想えばとても残酷なことをしてきたと思う。
かつて僕の人形作品のなかにあった“蟻焼き”をみて、ある方から「道徳的によくない」という指摘を頂いたことがある。
その作品は、子供が虫眼鏡を使って蟻を焼き殺す、という実に残酷極まりない作品だった。しかもその子供のまた、嬉しそうなことといったら・・・・。
特に男性の方ならほとんどの人が通ってきた道だと思う。かえるのお尻に爆竹を突っ込んで爆破!あるいはかえる野球。また、クモの巣に巻かせた爆竹の爆破!とんぼのシッポの途中を切断して、先の方をまた繋ぎ合わせて短足とんぼを飛ばす。羽根虫の羽根と足をすべて切断。イモムシの押し花ならぬ押し虫。蝶々の羽根をチアガールのポンポン程に切り裂く。ロケット花火に乗って飛んで行く様々の虫たち。
近頃の少年犯罪の傾向をここで解き明かすつもりはないけれど、ああした虫殺しはとても貴重な体験として(決して肯定しているわけではありません。)
今に活かされていると感じる。命の大切さを知るとは、生きることの必要性と死んでいくことの必要性を理解した上で、生ずるものであって、決して無意味に教え込むものとは違います。
ある子供が「これは殺してもいい虫。で、これが殺してはいけない虫。」と教えてくれました。
彼には何の罪もないだけに、その言葉にむなしさを感じたものです。
虫殺しに限らずとも我々は様々な過ちを経験してきました。
大切なことは、その過ちを理解して行くことでしょう。
大きな過ちのストッパーとすることでしょう。
それを次世代に伝えてあげることでしょう。
 

知らない
 
車がトンネルにさしかかる。その時僕はいまだに言いようのない興奮に襲われる。
それは、オレンジジュースがまだ粉末だった頃、母親に連れられてバスに乗ると、トンネル内の橙色のライトを指して、母はいつもこう言った「あの中には本物のオレンジジュースが入っているんだよ」と。
いつもバスは無常にもそこを素早く通り抜けるだけである。
もしも、そこでバスが止まったとしても、はるか頭上のオレンジジュースには手も届かない。小さくなっていくトンネルの穴を、ただぼう然と眺めるだけの僕。
トンネルには“よる”が住んでいると思っていた。日中はトンネルの中で眠り、夜になると外に出て辺りを暗くするのだと。だとすると“よる”はオレンジジュースが大好きなんだという結論に到達する。あれほどの量のオレンジジュースを独り占めにする“よる”がちょっと羨ましいとも思った。
独自の発想のなかから新しいものが生まれてくる。葉っぱは緑で、海は青。水は0℃で凍り、洗濯機は電気で回る。なのに赤ちゃんはこうのとりが運んでくる。現実と空想は常に交差を続け、都合のいい解釈が人を惑わせる。現実とは自然の摂理であり、空想とは人間の摂理である。清らかな眼で物事を見つめれば、空想の中に生き続ける事は恥ではない。それどころか、素晴らしい人生だと拍手喝さいを受けるだろう。
かちんこちんに生きていくのは、とても肩が凝る。知らないことを「知らない」と、知っていることも「知らない」と。知らないことを「知っている」と、知っていることは「知っている」と、私たちは知らず知らずにそんな使い分けをもって、日々暮らしている。そのバランスはとても需要だと思う。何にも知らなかった頃の自分の発想の豊かさを思えば、脳の周りに幕を張った“知識”が邪魔にも思えてくる。
時折発する子供たちの言葉の中には、心臓を突き抜く矢じりほどの鋭さがある。知らないが故の発想には、とてつもないエネルギーが秘められていることを、理解する必要がある。
 
童心庵の子供たちとの出逢い
 
岬に立って海を見ながら、いつもこう思った。
「いくつこの水平線を越えていくと、アメリカに着くのだろう?」って。
僕は、伊勢志摩の小さな漁師村で生まれ、高校を卒業するまでそこで暮らした。
ひ爺さんの造った二階建ての家はこの辺りでは珍しく、天気がよければ屋根に登って、ただボーと空や海を眺めた。
故郷はだれにでもある。決していい思い出には留まらないこともあるにせよ、明らかに自分の中に影響を及ぼしながら、人は大人になっていく。故郷とは幼い頃を過ごした場所であり、体で感じた空気や湿度、匂い、音でもあり、また生きたという事実でもある。それをモデルとしてひとつ上に昇ったときに大人になったと感じる。そんなことのくり返しで、人は故郷からどんどんと遠ざかってしまう。
鳥は羽をばたつかせて空を飛ぶ。車はガソリンで走る。葉っぱは緑で、空は青。地球は丸くて、物は上から下に落ちる。もちろんそれは正しいことなのだけれど、あまりにありふれた現実の中で身動きのとれなくなった自分に気づかずに、いつまでも肥大に大人の道を歩んでしまう。
自然はいつしか帰っていく。それは人類も同じこと。そして、いち個人においても同じことが言えると思う。
“人は帰っていく。”故郷から旅立った人たちは、だんだんと遠くへ旅をしながらいつしか折り返し地点に立つ。そしてまた故郷へ向かって歩き始める。生まれてきたように死んでいくんだ。(もちろんそれを望まない人もいるだろうけど。)
僕は今、ここ東濃の地に腰を据え、子供の日常をモチーフに作品をつくる。それは正しく自分自身である。
「尻の穴まで覗かれるような」気分で子供たちは生まれてくる。
すべてをさらけ出し、何も足さず、何も引かない。
海と山の違いはあるにせよ、幼い頃に感じた空気がここには存在していた。
 
蓄音機的思考
 
韓国のノミの市で、蓄音機を買った。
なんちゃっての本場ならでは、木箱の正面にはビクターの“なんちゃってニッパー君”が蓄音機の音に首を傾げる愛らしい表情が描かれている。僕はその出逢いに驚嘆して、どうやって持って帰るかなんてお構いなしに120,000ウォン(約12,000円)を払ったのです。大きなビニール袋にラッパだけを外してガサッと入れる、そんなご丁寧な梱包にも屈せず、手荷物で機内に乗り込む。ラッパは傷がつくといけないので、帽子替わりに頭にかぶると3人の外国に“ナイス キャップ!”と声をかけられた。
名古屋空港に着いてそのまま養老にある珍品城(古物店)に車を走らせて、SP盤を買い込む。レコード盤にレコードを載せて、がりがりとネジを回すときの興奮は何とも言い様がない。ストッパーを外し、レコードが回転を始める。そして、いよいよクライマックス!針をゆっくりと乗せて、ラッパから音が出たときの興奮は、初めて自転車に乗れたときのそれに似て、喜びと不安が入り混じって、落ち着かない。しかし、期待通りに蓄音機とSP盤は、その任務を遂行した。
デジタル漬けのちまたでは、表面的な完成度に没頭するあまり、五感優先の商品開発が先行してしまう。もちろんそれが悪いと言うわけじゃないけれど、人間が生身である以上、ハートを無視しての商品開発には限界があると感じる。だからといって、脳の構造を紐解いてそれに務めるのともまた違う。科学の進歩は人を豊かにしてきたけれど、失われた犠牲は無視できない。だとすると豊かさってなんなの?ってことになるのだけれど、それが“人類的進化”だと言われれば・・・・。
ともあれ、なんちゃってでも蓄音機。心にしみるその音は、確実に僕の中で眠っていた何かを目覚めさせた。いい買い物したいものですね。
※私ことではありますが、SP盤情報をお持ちの方はご連絡下さい。
 
風土
 
風はそこを吹き抜けて、決して留まることはない。そしてまた、そこには別の風が吹く。
そんな一瞬一瞬のくり返しの中で、風は岩を削り、砂を持ち去る。しかし、そこには新たなる砂が運ばれ、また、植物の種などといった命を運んでくる。
土は大地を形造り、自然のめぐみの土台となる。時に薄っぺらな土ぼこりとなって、旅立ってはいくものの、それでもやっぱりここに居る。人はそこに覆いをかぶせて勝手なお遊びを続けているけれど、土は地球そのものであって、揺るがぬ大地の思想は我々、人の生きざまそのものである。
ひとつの文化が生まれ育って行くには、この風と土のバランスが重要となる。
つまり、風とは流行であり、土とは伝統である。
それは地域文化に限らず、生命の種の保存とも大きな関わりを持っている。
母体に吹き込む風はあらゆるパターンの遺伝子構造を作り上げる。それが、生き残りである。
「風と土」私達はこの両者のバランスを体で感じながら、その摂理に対応して行ければ素晴らしい。
人それぞれの持つ「自信と順応性」はあなたの心の中にあるひとつの文化の発展であり、種の保存である。
なーんて。そんな思想を持って2,3日暮らすのもいいかもね。
 
個性
 

「個」
空を飛ぶ飛行機を見て、何を思いますか?
家の三方を海に囲まれた実家にいた幼い頃、僕は多くの時間を浜辺で費やした。
砂浜に腰をおろし、ふと水平線に目をやると、いつもそこには何隻かの行き交う船の姿を見ることができた。
そんな度に僕はその中の1隻に目を向け、その船に乗るひとりの人を思ったのです。
どんな思いでこの船に乗りこみ、どんな希望に夢を膨らませていのか。あるいは家族はどうであるのか。幼い頃どんな遊びをしたのか。学校での成績は良かったのか?様々なことを思うのです。
それは、船に限ったことではありません。飛行機を見た時も同じです。せみの鳴き声を聞いても。鈴虫が鳴いても。蛙が鳴いても同じです。数十階のビル、電車、渡り鳥、雨粒までも。その中のひとり、ひとつ、一匹をピックアップしてその彼について、深く思い感じるのです。
私たちは物事を大きなひとつの括りの中で見てしまうことが、多くあります。そして手の届くすごそばの物しか見れなかったりもします。しかし、物の存在そのものが、ミクロの集合体であることを認識しなければなりません。そんな個々がそれぞれのパターンのによって形を成すのです。
みんながみんな、それぞれに生きている。楽しいよね。

 
振りかえってみるということ
 

物事は多くの時間を経て、刻々と変化を続けています。人の心もまた同じです。
あんなに愛した人を懲らしめてやろうと思ったり、あんなに興奮したおもちゃを捨ててしまったり、こんなにも便利なものがそうでもなくなってしまったり。
一昔前の携帯電話お覚えていますよね。あのショルダー式のやつ。町であんなの持ってたら、注目の的だったでしょう。欲しいとまでは言いません。ちょっと貸して欲しかったですよね。僕がはじめて移動式電話と呼ばれるものを使ったのは、十年位前のことになります。僕がまだサラリーマンをしていた頃、得意先の社長さん
の自動車電話から会社にかけた電話が初めてでした。何のことはないのだけれど、興奮しましたね。電話に出た同僚は、何の反応もなかったけれど。
満足の器が満たされれば、次ぎの器を探し始めます。そして、その器が満たされてまた、次ぎの器を探します。欲求は小さな満足をくり返しながら、いつまでも絶える事はありません。
それって、もしかしたら生きていくことの糧なのかも知れません。ひとつの目標みたいなもの?
でも、そんな物質的欲求にすがる生き方は、自身に何の実りももたらしません。
ある時、ふと昔を振り返って見ます。そこには様々なヒントが隠されています。

30円でベビースターラーメンとアイスクリームを買って、大切に食べたこと。
自転車の補助輪が取れた日のこと。
山に秘密基地を造ったこと。
郵便ポストを見上げたこと。

振りかえりながら生きることは決して悪いことではありません。それに“すがる”ことこそ、不必要なのです。

 
   

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